理解しようとするよりも大切なこと

理解することって、本当の意味ではできないんだけど、勝手にわかった気になってしまうことがよくあります。

 

先日、不登校の親の会のイベントに参加してきました。

これまた面白い話をたくさんお聞きすることができました。

 

中でも興味深かったのは「理解」の話と「支援」の話。

 

簡単に物事を「理解」したつもりになるのは恐ろしいことで。

「理解」は、自分の世界に押し留めること。

理解でなく、拒絶でもなく、受け入れることから始めるのが大切なんだという話で。

無理に「理解しようとする」んじゃなく、まずは寄り添ってみる、だんだん慣れてくると「わからなかったこと」も認められるようになっていく。

難しい数学の公式の意味が理解できなくても、ルールとして定着してくると「こういうものなんだ」ってなるように。

 

人間関係だって、そうなのかもしれない。

相手のことを理解するって、本当の意味ではきっとできなくて。

ただ寄り添い、一緒に過ごす中で、「こういう人なんだ」って感じていくのかな。

 

ちなみに今回のテーマは「するとされるの間で森を見つめる。中動態と森」。

難しそうだけど、ホント面白くって。

 

「能動と受動」、「するとされる」という対比関係は、割と最近生まれたものらしくて、それまでは「能動と中動」という対比だったそう。

「中動」っていうのは、受動も含めた広い概念で、つまり「する以外」のすべてのこと。

 

例えば、たまたま視界に山が入った時、「山が見えた」って言うんだけど。

こちらは山を「見よう」と思って見たわけじゃなくて、目に飛び込んできただけ。

で、山の方からしても「見せた」わけじゃなくて。

 

そういう「する」でも「される」でもない概念が中動。

そして、植物は「中動」なんだという話。

 

もう一つ面白かった話が、支援のあり方について。

「意思決定支援」より「欲望形成支援」が大事だという話で。

つまり、選択肢を与えて何かを「決めさせる」のではなく、「その人の欲望が生まれる瞬間を待つ」という支援が大事なのではないかという話。

決めさせようと「する」のは能動的なものだけど、「待つ」っていうのは中道的なものなんだろうな。

子どもと関わる中で、日々「待つ」っていう難しさを感じるのも事実だけれど。

 

自分に置き換えてみてもそうで、やっぱり人に与えられた選択肢よりも、自分で思いついたことの方がやる気が出る。

 

相手を理解したり、どうこうしたりしようとするって、支配的なことなのかもしれない。

でも、それって多くは心配であったり、優しい感情からくるものだから難しい。

相手のことを思うからこそ、理解しようと思うし、助けようと思うんですよね。

 

そんな優しさも持ちながら、どんと構えられる人間になりたいなぁ、と思います。

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