「当たり前」のレールは、はみ出してもいい

不登校の親の会の座談会に参加してきました。

不登校経験者の方の話を聞いて、「当たり前」とか「一般的な価値観」みたいなものって、絶対じゃないよなって改めて感じました。
世間一般の当たり前のレールを外れることって、悪いことじゃないんですよね。

僕自身は不登校の経験はなくて、小学校から大学まで通い、卒業して職に就いたんですが。
どこか「不登校」っていうものを経験した人の話って共感できるところがあって。
多分、社会人になって鬱と休職を経験したからなのかなって思ってます。

 

鬱の経験と不登校

鬱になった時って、仕事が嫌だったんじゃなくて、「他にもっと大変な人がいるのに」とか、「なんでこんなに自分はできないんだ」みたいのが積み重なって、どんどん自分を追い詰めてたんですよね。

だんだん朝起きるのがしんどくなって、「行きたくない」の気持ちに頭が支配されるようになりました。
仕事に行ってしまえばなんとなく一日過ごせるんだけど、帰っても頭の中はずっと仕事のことでいっぱいで。
何も考えられない、何も集中できない、喋りたくない、眠れない、朝起きられない、食べたくない、何もしたくない、そんな悪循環。
大人も子どもも関係なく、自分の思いにフタして過ごしてると、誰でもそうなっちゃうんじゃないかな。

休むっていう決断も簡単なことじゃなくて、「迷惑をかけてしまうから」ってなかなか言い出せませんでした。
あの時、奥さんが「休んだら」って言ってくれたから、救われたんだと思います。
休んだらからといって、いきなり頭がスッキリするわけでもなくて。
毎日「手放してしまった責任」や「自分の代わりに仕事を背負っている人」や「何もできない自分」に対して罪悪感を感じていました。
頭の中は一日中マイナスの黒い思考一色に染められて。

そのマイナスの渦をほんの一時忘れさせてくれたのが、漫画を読んでる時間だったんですよね。
だから一日中漫画に没頭して、300冊分くらい読んだかな。
漫画読んでる時だけは別の世界にいってるみたいで。
たまたま僕の場合は漫画だったけど、人によってはそれがゲームやYoutubeになるのかもしれない。

知り合いに会うのが嫌で外に出られなくなったり、休んでることを人に言ったら変に気をつかわれるんじゃないかって思って言えなかったり。
隠そうと思ってるわけじゃないんだけど。

こう改めて振り返ってみると、今日の話とリンクする部分って多いのかなって。

 

当たり前のレールみたいなもの

良い言い方かはわからないけど、日本の社会には当たり前のレールみたいなものがあるなと思ってて。

それが、「学校→就活(試験)→就職」っていうイメージで、それが一本に繋がっているのが当たり前みたいな。
そしてそのレールから外れると、はみ出しものみたいに見られてしまったり。
実際には見られてなくても、外れた自分に劣等感を感じてしまったり。
少なからずそんなモヤモヤがあるんじゃないかなと。

「不登校」っていう言葉にも、その当たり前のレールを外れちゃいけないっていう、そんな世間の目みたいなものがあるのかなって思う。
人間関係に苦しんだり、厳しい規律の中で生活するのが合わなかったり、自分の気持ちを押し殺して生活してたり。

理由は様々だと思うけど、それって学校に限ったことじゃなく社会に出てからも同じことが言えると思ってて。
職場の環境に心を病んで、一般社会から距離を置くのだって、言ってみれば「社会人の不登校」みたいなものなんじゃないかなって思う。

 

レールから外れたっていい

そして一般的なレールから外れることは、マイナスに捉えられがちだけど、実はそうじゃなくて。

例えばフリーランスや個人として生きる選択だって、今はもう当たり前になってきてる。
子どもにだって自らの意思で「学校に行かない」っていう選択をする子も実際にいて。

どっちもただの選択肢で、何を選んだっていいんだと思う。
結局は選ぶのは自分の意思であって、誰から強制されるものでもなくて。

大事なのは、選んだ後どう生きていくか。

本当はレールなんてなくて、生き方は無限にあるはずなんだよね。
僕は休職したから、そのことに気付けたのかなって思う。

決まったレールから外れるのは不安だらけだけど、ある意味外れるなら早い方がいいのかなとも思う。
早ければ早いほど、その後の人生の幅が広がるから。

焦らなくてもいいし、自分の新しい生き方をゆっくり探せばいいんだと思う。

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